宗教とは何か

宗教とは何か。
この難問に答えてみたい。


古来よりひとは万物に神をみた。
それは文字に神を見るよりもずっと以前のことだ。
大地の繁殖力に、天候の荒々しさに、自然の強大さに、
人びとは畏怖し、また崇敬の念を感じていた。
「人域を超えた力」、まずそれに気付くことが宗教の
出発点であった。そして哲学の出発点でもあった。


「人域を超えた存在」。人びとは生きるために寵愛を求めた。
敵対関係ではなく、協力関係を築くこと。そのための
「神とのコミュニケーション」が宗教儀礼である。
神と人とが強い絆で結ばれること、それが人間が生きていく
ためには不可欠であった。


しかし、やがて人間が「都市」を築き、そこに住み始めると、
もはや自然は畏怖の対象ではなくなった。都市民には新たな
神が必要となった。


都市民は「生きること」を求め、「死ぬこと」を否定した。
それは「死」が「新しい生」と不可分であったかつての宗教
とは大きく異なる。「生」への醜いまでの固執。それが次の
宗教であった。自然から離れた都市民は、当然自然のなかには
神を見ない。ゆえに、文字のなかに神を閉じ込めた。
自然という目に見える宗教世界から、文字という観念的な宗教
世界への転換。都市民による妄想世界は、やがて世界中に広めら
れるようになった。そして自然はひとり孤独となった。


文字宗教の時代。人びとは自らの妄想世界に救いを求めた。
なぜ人は死ぬのか?死んだあとにどこへ行くのか?
なぜ人は生まれるのか?何のために生きればいいのか?
人間の肥大化した自意識に対する解答を、人びとは宗教
に求め続けた。それは死ぬことが自明であったかつての
宗教とは大きく異なる。やがて人びとの生への固執
ひとつの洗練された「倫理」を生み出した。
人びとの悩みの総体が、新しい宗教を生み出したのだ。
しかし、もはやそれは「宗教」ではない。
宗教はここで「人域の領域」の内側に引き戻され、人間の
たわごとに成り下がった。無宗教への道がここに開かれた。


文字宗教の全盛期。宗教は徹底的に儀礼化が進んだ。
もはや畏怖は「演出」によってしか再現され得ない。
人びとの畏怖と崇敬の対象は、いつの間にか「王」に
成り代わっていた。人々はもはや「権力」を通して
しか「大いなる存在」を見れなくなっていた。
「倫理」と「演劇性」。あまりに人為的な宗教の本質。
人間は人間が生み出した「技術」を神と信じ続けた。


長い文字宗教の終焉。科学の時代。
科学という知の体系が、ことごとく「宗教」の虚偽を
暴露し始めた。自己否定の時代。自明の「嘘」を、
科学は得意げに糾弾していった。
結果、「神」のヴェールは剥がされ、「倫理」と「権力」
だけが残った。


新しい宗教の時代?
いや、人々は「死ぬこと」を忘れ始めた。「判断停止」。
死ぬことへの恐怖を、人びとは考えることをやめることで
克服したかにみえる。生が無限に続くかのような幻想。
しかし、死のリアリティを失ったぶんだけ、生もやはり
希薄となった。生きることもやはり、忘れてしまったのだ。
人間は自然を忘れ、社会を忘れ、最期には自己をも忘れてしまった。


人間はかくも臆病で、かくも孤独な存在である。
宗教の本質はそこにある。自己の卑小さを妄想で埋め合わせようと
するところに宗教はあり、それを忘却しようとするところに現代は
ある。しかし、人間の妄想が生み出してきた創作物群の偉大さを考える
とき、やはりそこには「神」が顕在化していると考えることができるの
ではないだろうか。もしも人間の霊感が神を感じ取ることができるのなら。


しかし最期に仮説を立てたい。
宗教とは人間の生きようとする力の顕在化なのか?
それとも死ぬことへの欲求の観念化なのか?