政治とは何か

政治とは何か?


政治の選択性とリアリティに、私は興味がある。
我々ははたして「政治」について語ることができる
のだろうか?日々、街角で、居酒屋で、教室のなかで
あらゆる政治についての談義が繰り広げられている。
北朝鮮が・・・」「靖国が・・・」「教科書問題が・・・」。
しかし、それは「政治」なのだろうか?


とんでもない違和感。とんでもない失笑。
ニュースで繰り広げられる議論は果たして「政治」
なのだろうか?街頭でインタビューを受けている
彼らは政治について語れているのだろうか?
「あなたは靖国参拝について・・・」
「あなたは新内閣について・・・」
「あなたは今回のスキャンダルについて・・・」


政治についての選択性。
我々が政治について語っているのは、「右」か「左」、
それだけである。メディアが提出したマスタープランに
「乗っかる」か「乗っからない」か。その選択性にこと
「政治」の袋小路がある。我々は「賛成」か「不賛成」か
「快」か「不快」かを述べることが「政治への関わり」で
あるといつの間にか錯覚させられている。些末への収斂。
決して「全体」へはいきつくことがない。ゆえに、我々の
政治についての「語り」にはいつもリアリティがない。
それは「メディア」について語ってるのであり「政治」に
ついては語っていない。「ワイドショー」を語るのと同じ
レベルで「政治」を語っている。ゆえに、万人の生死に
関わる問題も「にやけて」語ることができる。
些末。些末。些末。


我々は政治に関わっているのか?もし「関わってる」と考える
ならそれは幻想である。我々は「バラバラ」「些末」「表層」
の情報のみを餌のように与えられ、それをむさぼり喰うだけ。
それは消化されひとつの「幻想」を生みだす。あまりにも虚しい、
「政治」という幻想を。


政治とは「選択性」を乗り越えた「創造性」のなかにこそある。
「我々はどうしたいのか」「我々はどうするべきなのか」。
「人民の幸福と安寧」を追求するところに政治の本質があるのなら、
「選択」などは、それとは全く関係のない言語ゲームに過ぎないではないか。
感情を満足させるだけの虚しい言語ゲーム
それは政治ではない。