思いとは何か、そして、歴史とは何か

店をでて
青い空のはるか遠くを見つめながら
「いつか私を見つけてくれるのだろうか?」
と、深く呪った。


これが歴史家としての私の出発点であった。


「人間とは総じて中継ぎである。」
とは私の先生の言葉である。
確かに、私のまわりをみても、先生の「思い」
をいたるところで発見することができる。
もちろん、わたしのなかにもそれはある。


強い思いは時間のなかで空間のなかで
いつまでも生き続ける。図書館にでも行けば、
誰でもそれに気付くことができる。
強い思いだけが・・・。


キリストも、親鸞も、仏陀も、ニーチェも、
誰もかれも、強い思いだけがこの世界に遍在する。
強い思いだけが・・・。


「永遠に生きる」とはそういうことなのだろう。
自然淘汰の思想のように、人間の感性は弱い思いを
淘汰していく。弱い思いは、短い生すらも与えてはくれない。
あまりの孤独・・・。


歴史とは「思い」を再び拾い上げる作業ではないだろうか。
それは「強い思い」のみならず「弱い思い」も、公平に。


弱い思いしかもたない名もなき人びとも、
やはりふと空を眺めながら、私と同様の孤独と、そして
かすかな希望を感じたのかもしれない。
「わたしの思いも行き続けるのだろうか?」


孤独を解放しよう、思いを解放しよう。
それこそが「歴史」の本質ではないだろうか?
そして私は歴史家となった。